有識者コラム
わが国の農薬環境科学研究の歩んだ道
- 元島根大学学長山本 廣基 氏
1924年に日本農芸化学会が設立され、除虫菊やデリスの成分研究からわが国の農薬化学研究が始まり、1947年に京都大学の農薬化学講座が設置されて以来、農薬科学は飛躍的な進歩を遂げました。これらの科学的知見を元に多くの作物保護技術が開発され、食料確保に多大な貢献をしてきたことは疑いもありません。
農薬環境科学とは
20世紀の科学技術の進歩は私たちの生活に大きな利便性をもたらした一方で、その科学技術の発展に伴う多様な人間活動が様々な環境問題を顕在化させました。農薬と環境との関わりが社会的に広く意識され始めたのは、PCPの魚毒性が問題となり、また、レーチェル・カーソンの「Silent Spring」が発表された1960年代です。1963年に水産動植物の被害防止、1971年に作物・土壌への残留、水質汚濁などの環境の観点から、1948年に制定された農薬取締法が大改正されました。有用水産動植物への影響試験、環境中運命に関する試験などが登録にあたって必要とされることとなった一方で、非標的生物への影響に関する試験研究も注目されるようになり、これらに関する環境科学的研究が精力的に行われるようになりました。
農薬環境科学の扱う分野は主に次のように大別できます。
- 環境中での代謝分解
- 環境中での残留とその分析方法
- 環境モニタリングと動態予測
- 非標的生物に対する副次的作用とリスク評価
わが国の農薬環境科学研究の歩み
1976年からスタートした文部省科学研究費「環境科学」特別研究班(代表者:古坂澄石)のグループが農薬の環境問題をテーマにして定期的に開催していた勉強会の報告書には、「合成有機物使用の可否は、単にそれ自体の人体に対する毒性のみによって判断すべきではなく、環境中に放出されたのちの化合物の挙動、運命、生物相に与える影響も評価した上ではじめて判断すべきであろう。」と書かれています。この勉強会が母体となって、1983年に日本農薬学会(http://pssj2.jp)の小集会として農薬環境科学研究会が発足しました。それ以後、この研究会では、「環境中での挙動実態と予測手法」、「作業者暴露」、「環境中での代謝分解」、「生態影響評価」、などをキーワードとする、時宜にあったテーマを設定して議論を深めると同時に、学会員のみならず、行政関係者、消費者などとも広く意見交換を行ってきました。それらの成果は直接間接に現在の農薬の環境リスク管理に反映されてきたと言えるでしょう。
1998年には、当時の環境庁に農薬生態影響評価検討会が設置され、その検討結果として第一次中間報告「21世紀における我が国の農薬生態影響評価の方向について」(1999年) が出されました。1999年に閣議決定された環境基本計画の中で、「人の健康だけでなく、生態系への化学物質の影響の重要性が認識されつつあり、農薬を含めた様々な化学物質による生態系に対する影響の適切な評価と管理を視野に入れて化学物質対策を推進することが必要」と謳われ、また、2002年にはEU が新化学品規制を公表しています。
これらを受けて、2005年には、暴露量を加味した水域生態系を対象にした安全性評価制度が導入されました。「暴露量を加味した」ことは画期的で、それまでのハザードだけの評価から暴露量を踏まえたリスク評価に転換されたことは、それまでの農薬環境科学研究の成果とそれに基づいた議論ができるようになったことが大きいと言えます。
農薬学会では、かねてよりこれらの問題に対する深い関心をいだいていたことから、2002年の第27回大会シンポジウムの一つとして「化学物質の健康と環境に及ぼすリスク評価と管理」というテーマを取り上げ、このシンポジウムを契機に「生態影響ワーキンググループ」を組織し、精力的に重ねられた議論の成果として「農薬の環境科学最前線 - 環境への影響評価とリスクコミュニケーション」(ソフトサイエンス社、2004)が出版されました。
その後、予測環境中濃度の精緻化や作業者暴露、非標的生物個体群に対するハザードや生態系の意義を加味した「生態リスク」を意識した課題設定などの研究が推進されています。しかしなお、環境中濃度の予測の不明確さ、生態系の中での対象化合物の残留・分解・蓄積・生態濃縮の不明確さ、生態系がもつ緩衝力・回復力の強さの不明確さなどの課題は残っています。
おわりに
環境問題に対する社会の関心は高く、化学物資の問題も例外ではありません。これまでも、誤った情報に基づく批判や自分達にとって都合の良い解釈などにさらされてきました。インターネットなどの発達によって情報の洪水と言う言葉がふさわしいような昨今の状況ですが、その真偽を確認することなく信じたり、拡散するなど、情報リテラシーが十分だとは言えません。先に「暴露量を加味した規制」を画期的と書きましたが、化学物質に関して「質」と「量」の双方を取り上げて議論されることは今なおまれです。
ハザードがあっても一定量の曝露がなければリスクは生じないことが当然のこととして受入れられ、リスクは管理によって削減し得ることを理解できるような情報の受止めや発信の在り方が求められていると思います。
主な出来ごと年表
1924 日本農芸化学会が設立される
1947 農薬化学講座が京都大学に設置される
1948 農薬取締法が制定される
1963 PCP の魚毒性が問題となり、水産動植物の被害防止の観点から農薬取締法が改正される
1971 作物・土壌への残留、水質汚濁などの環境の観点から農薬取締法が改正される
1975 日本農薬学会が設立される
1976 農薬の環境問題をテーマにした文部省科学研究費補助金「環境科学」特別研究班がスタートする
1983 農薬学会の小集会「農薬環境科学研究会」が発足する
1998 環境庁に「農薬生態影響評価検討会」が設置される
2002 無登録農薬の使用規制、農薬の使用基準などの観点から農薬取締法が改正される
2002 農薬学会に「生態影響ワーキンググループ」が組織される
2004 「農薬の環境科学最前線-環境への影響評価とリスクコミュニケーション」が出版される
執筆者
元島根大学学長山本 廣基 氏島根大学大学院農学研究科修士課程修了後、名古屋大学で農学博士号取得。佐藤造機(現三菱マヒンドラ農機)中央研究所を経て、島根大学助手、助教授、カリフォルニア大学デービス校客員研究員を務め、島根大学教授、生物資源科学部長、理事・副学長を歴任。2009年から2012年まで国立大学法人島根大学長、2012年から2013年まで国立大学法人熊本大学監事を務め、その後、独立行政法人大学入試センター理事長(2013~2022)。中央環境審議会臨時委員、農業資材審議会農薬分科会長、高大接続システム改革会議委員なども歴任。島根大学名誉教授、大学入試センター名誉教授、日本農薬学会名誉会員。
主な著書
- 農薬の環境科学最前線 ソフトサイエンス社 ソフトサイエンス社(2003)
- Handbook of Residue Analytical Methods for Agrochemicals Vol.2 John Wiley and Sons(2003)
- 土と農薬 日本植物防疫協会(1998)
- Reviews in Toxicology 2 iOS Press(1998)