有識者コラム
農薬のリスク評価・管理に欠かせない「レギュラトリーサイエンス」とは?
- 農研機構農業環境研究部門上級研究員永井孝志 氏
レギュラトリーサイエンスとは、いろいろな定義がありますが、ここでは2011年第4次科学技術基本計画に掲載された定義である「科学技術の成果を人と社会に役立てることを目的に、根拠に基づく的確な予測、評価、判断を行い、科学技術の成果を人と社会との調和の上で最も望ましい姿に調整(レギュレート)するための科学」とみなします。でもこれだけ読んでも何のことやらわかりませんね。重要なのは定義よりも考え方です。レギュラトリーサイエンスで重要なのは、科学だけでは答えられない問題に対して、できるだけ科学をベースに判断しようとする姿勢です。
この用語は1987年に国立衛生試験所の内山充氏、1990年にSheila Jasanoff氏、がそれぞれ独立に提唱したものです。新たな知識を生み出す科学ではなく、知識を判断に応用するための科学、という同じような概念をそれぞれが同時期に同じ用語をあてはめたことが非常に興味深いです。同様の用語に「トランスサイエンス」があり、低線量の被ばくにおける健康影響など、これも科学だけでは答えを出せない問題を扱っています。ただし、トランスサイエンスが「科学で答えを出せない」という面を強調して、科学ではなく社会に問うべきである、と考えたのに対して、レギュラトリーサイエンスではあくまで科学の側から答えを出すために新しい科学が必要である、と考えます。
例えば「お酒は20歳から」が日本の決まりとなっていますが、なぜ19歳でも21歳でもなく20歳なのか?という疑問にきちんと答えることは難しいです。アルコールが健康を害することはよく知られており、特に若年ほど影響が大きいとされています。ここまでは科学で答えられますが、どこで線引きすべきかは科学だけで答えを出せません。20歳になると突然アルコールの害がなくなるわけではないからです。そこで最後には「調整」というプロセスがどうしても必要になります。もともとは法律の名称である「未成年者飲酒禁止法」のとおり、20歳は「成年」であり自立して自己責任がとれる年齢だから、が線引きの根拠となっていました。しかし現在の成年年齢は18歳に引き下げられ、この理屈は最早あてはまりません。ところが、飲酒開始年齢は20歳に維持されており、逆に法律の名称の方が「二十歳未満ノ者ノ飲酒ノ禁止ニ関スル法律」に変わりました。
少し脱線してしまいましたが、安全のためのレギュラトリーサイエンスの話に戻りましょう。安全とはISO/IEC Guide51:2014(規格に安全に関する面を導入するためのガイドライン)によると、「許容できないリスクがないこと」と定義されており、ゼロリスクを意味しません。ではどこまでのリスクなら許容できるのか、という線引きはお酒の例のように科学だけでは答えを出せません。だからといって科学なんて重要ではない、と投げ出してしまうとこれまた問題です。最大限に科学的なリスク評価を行いつつも、最終的には「調整」というプロセスが避けられないのです。その調整の場面ではリスクに加えて、心理的な要素の考慮や社会的な合意が必要となります。安全は科学的なもの、安心は心理的なもの、という安全・安心二分法で語られることが多いのですが、実際には安全とはリスク・心理的要素・社会的合意を含む複合的な概念なのです。
化学物質管理の実務面で考えてみると、新たな知識を生み出すリサーチサイエンスと政策の間の橋渡しをレギュラトリーサイエンスが担います。すなわち、断片的なファクトからリスク評価を行い、規制措置などの政策策定を支援するわけです。断片的なファクトを政策につなげるには作法が必要です。例えば、マウスの毒性試験の結果から人間の健康影響を予測する際に、マウスと人の感受性差が10倍、人の感受性個人差が10倍などの「仮定」を設定してADI(許容一日摂取量)を決定する、という評価法があります。これは科学をベースとしているものの、最終的にはファクトというよりも約束事の世界です。科学で解明されていない部分がある際にはなるべく安全側に考えて評価しよう、という考え方も価値判断の世界です。発がん性のある・なしについても、科学は「ない」ことの証明はできません(悪魔の証明と呼ばれる)。発がん性を示すファクトが見つかっていなくても、科学的な視点からは「発がん性があるかないかはわからない」としか言えないのです。代わりに、あるガイドラインに基づいた試験をクリアしたものを「発がん性がないということにしましょう」という専門家間の合意による評価を行います。
このように、現代における農薬のリスク評価・管理には「レギュラトリーサイエンス」という考え方が欠かせません。リサーチサイエンスとレギュラトリーサイエンスの考え方の違いや、リスク評価の中に潜む価値判断についても今後書いてみたいと思います。
執筆者
農研機構農業環境研究部門上級研究員永井孝志 氏筑波大学博士(理学)。現在、国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構農業環境研究部門土壌環境管理研究領域農業環境情報グループ所属。専門はリスク学、農業、リスクマネジメント、農薬、生態リスク、レギュラトリーサイエンス。2006年、筑波大学にて「Studies on Dissolved Iron and Its Speciation in a Lake, and Their Effect on the Growth of Bloom-Forming Cyanobacteria」に関する学位論文で博士号取得。所属学会として日本陸水学会、農薬学会、リスク学会、環境毒性学会、農業情報学会に参加。現在、日本リスク学会理事、日本環境毒性学会幹事。
主な著書
- 基準値のからくり( ブルーバックス 1868)講談社 (2014)