有識者コラム
食料安全保障と農薬の役割
- 東京大学名誉教授食の信頼向上をめざす会代表唐木 英明 氏
コメの価格高騰が続く中、農林水産省は深刻な不作や災害時などに限ってきた政府備蓄米の放出を、コメの流通に支障が生じた場合でも実施できるよう指針を変更して21万トンを放出することとし、このうち初回は15万トン、その後状況を見て追加するとしています。これまでの例を見ると、2011年の東日本大震災時には約3万トン、2016年の熊本地震の際には約86トンを被災地への食料支援として供給しています。
2023年には、記録的な猛暑やカメムシ等の影響でコメの供給量が減少したところに、円安の影響で訪日外国人観光客が増加して消費量が増え、さらに2024年8月に気象庁が南海トラフ地震に関する臨時情報を発表し、その後の地震、台風等を受けて消費者がコメの買いだめに走ったことから量の不足と価格の高騰を招き、スーパーの店頭からコメが消えるという「令和の米騒動」が発生しました。
農水省は2024年産米の収穫量が前年を18万トン上回ると見込み、新米が本格的に出回れば価格高騰が落ち着くという見解を示していました。ところがこの楽観的な見通しとは逆に、新米が出回った後の主要業者の集荷量は21万トン減少しています。農水大臣は「消えた21万トン」の主な原因は転売目的の買い占めであり、その結果「流通の目詰まり」が起こったと説明していますが、その結果、コメの価格は昨年の2.0倍まで上昇しています。この異常事態を解決するための21万トンの備蓄米放出となりましたが、価格は下がっていません。
2024年の主食用のコメの生産量は679万トンだったので、21万トンはその3%に過ぎません。たった3%の不足でこれだけの騒動が起こるのだから、不足が1割、2割になった時には想像を絶するパニックが起こることは間違いありません。しかも、農産物の価格高騰はコメだけではありません。小麦粉、野菜、果物、食肉などほぼ全ての農産物に及んでいます。
その原因は、新型コロナの世界的流行による物流の停滞に始まり、ウクライナ紛争による原油価格の上昇と輸送費の上昇とロシア制裁等による小麦や肥料の供給の混乱、温暖化による穀物生産の減少、そして円安による肥料、飼料、農薬などの輸入価格の上昇など極めて複合的なものです。価格の上昇は大きな問題ですが、その先に見えてくるのはさまざまな食料が購入できない緊急事態です。
食料・農業・農村基本法は、良質な食料が合理的な価格で安定的に供給され、かつ、国民一人一人がこれを入手できる状態を食料安全保障と定義しています。そして、世界的な食料需給の不安定化の中で、その国民生活や国民経済への影響を最小限に抑えることを目的とした食料供給困難事態対策法が4月から施行されます。この法律では、食料供給事態が深刻化して、供給量が平時の2割以上減少した場合、政府は事業者に対して指示を行い、供給確保のための具体的な措置を講じることになっています。さらに重要な点は平時からの備えであり、食料自給率を向上させるため、国内生産の維持・拡大を図る政策を推進することも定めています。そのためにすべきことは多いですが、最も基本的な対策が農薬と肥料の安定供給でしょう。そしてその大きな阻害要因が、農薬に対する消費者の過剰な不安感です。とくに都会に住む消費者には、農薬が農作物を病害虫、雑草などの脅威から守り、収量と品質の低下を防ぐ作物保護の手段であること、だから農薬なしでは食料の確保が不可能という事実が理解されず、無農薬で食料生産が成立するかのような誤解が増えています。さらにSNSには非科学的な農薬危険論があふれ、誤解を拡散しています。温暖化の進行と予測困難な世界状況の中で食料危機のリスクが高まっている現在、国民的な誤解の解消がこれまで以上に求められているのです。
執筆者
東京大学名誉教授食の信頼向上をめざす会代表唐木 英明 氏東京大学農学部卒業。助教授、テキサス大学ダラス医学研究所研究員を経て東京大学教授、アイソトープ総合センター長を併任。倉敷芸術科学大学学長、日本学術会議副会長、公財)食の安全・安心財団理事長、内閣府食品安全委員会専門委員などを歴任。日本農学賞、瑞宝中綬章などを受賞。専門は薬理学、毒性学、食品安全
主な著書
- フェイクを見抜く「危険」情報の読み解き方 (共著)ウェッジ
- 健康食品入門 日本食糧新聞社
- 不安の構造: リスクを管理する方法 エネルギーフォーラム
- 誤解だらけの遺伝子組み換え作物(共著)エネルギーフォーラム